薫ちゃんの徒然囲碁日記

囲碁に少しでも興味を持ってくれた方が、より囲碁を楽しめるような豆知識を紹介していきます。

第18話「関西棋院ができたわけ」の巻

薫ちゃん「先生、何で囲碁の団体は『日本棋院』と『関西棋院』に分かれてるんですか?」

石野先生「いい質問だね。よし、その辺りの歴史を説明しよう。」

薫ちゃん「お願いします。」

石野先生「日本棋院は大正時代に設立された団体なんだけどね、そもそも設立のきっかけが『戦後バラバラになった囲碁界も、そろそろみんなでまとまろうよ』っていう流れだったから、最初は日本棋院しかなかったんだよ。」

薫ちゃん「じゃあ、関西棋院が後からできたんですね。」

石野先生「後からできたというよりは、日本棋院の関西支部が独立したといった方が正しいのかな。」

薫ちゃん「独立・・・ケンカでもしたんですか?」

石野先生「ほとんど正解だね。独立したのは、1950年のことだ。薫ちゃん、本因坊って覚えてる?」

薫ちゃん「確か、囲碁の7大タイトルの1つですよね。本因坊が、関西棋院の独立と関係してるんですか?」

石野先生「実は、大ありなんだよ。1950年当時、日本棋院関西支部関西棋院という名前に変わっていたんだけれどね、一応日本棋院とは同じ組織として活動していた。」

薫ちゃん「ふんふん。」

石野先生「で、この年に、関西棋院のトップだった橋本宇太郎先生が、本因坊のタイトルを獲得するんだ。」

薫ちゃん「おおっ、すごいですね。」

石野先生「ところが、時を同じくして、本因坊戦の大幅な制度改正が発表される。一番大きな改正は、任期が2年から1年に変わったことでね。これに、宇太郎先生が怒っちゃったんだな。」

薫ちゃん「橋本さんにしてみれば、せっかく獲ったタイトルの任期が突然短くなっちゃったんだから、そりゃあショックですよね。」

石野先生「そうだね。当時は、東京vs関西みたいな気運があったから、宇太郎先生が『タイトルを早く東京に取り戻したいがための策略』と思っちゃった可能性もある。それに、宇太郎先生は『火の玉』とあだ名されるほど気性の激しい人だったみたいだから、カッとなっちゃったのかもね。」

薫ちゃん「『火の玉』って、すごいあだ名ですね。」

石野先生「で、怒った『火の玉宇太郎』先生は、関西棋院の独立を宣言しちゃうんだ。」

薫ちゃん「よく、大勢の人がそれに賛同しましたね。」

石野先生「どうやら当時は、東京に比べて関西が下に見られていたようでね、関西棋院棋士たちはずいぶん冷遇されていたみたいなんだ。だから、みんな不満が溜まっていたんだろうね。本因坊戦の件は、きっかけに過ぎなかったんじゃないかな。」

薫ちゃん「なるほど。」

石野先生「独立されてしまった日本棋院のほうも、気が気じゃないよね。大事な本因坊のタイトルを、関西棋院に持っていかれちゃったわけだから。」

薫ちゃん「そんなにケチケチしなくてもいいのに。」

石野先生「当時、タイトルといえば本因坊くらいしかなかった時代の話だしね。それに、本因坊というタイトルは、家元である本因坊家の名前を継ぐという重みもまだまだ残っていたんじゃないかな。だから、日本棋院は必死になってこれを取り返そうとする。翌年の本因坊戦は、そりゃあ緊迫した雰囲気で打たれただろうね。」

薫ちゃん「ドキドキしますね。結果はどうだったんですか?」

石野先生「宇太郎先生は、1勝3敗まで追い込まれながらそのあと3連勝して、見事にタイトル防衛を果たすんだ。」

薫ちゃん「よかったぁ。」

石野先生「1勝3敗ともう後がない状態で迎えた第5局での、宇太郎先生の言葉『首を洗ってきました』は、囲碁史に残る名言として伝えられているよ。」

薫ちゃん「負けたらカッコがつかないですし、橋本さんも必死だったでしょうね。」

石野先生「文字通り、命がけだったんじゃないかな。」

薫ちゃん「きっかけがきっかけだけに、その後も日本棋院関西棋院の争いは続くんでしょうか?」

石野先生「そうだね。でも、その気運が刺激になって、囲碁界が発展してきたのかもしれないよ。」

薫ちゃん「今でもやっぱり、日本棋院関西棋院は仲が悪いんですか?」

石野先生「さすがに、そんなことはない・・・と思う(笑)」

薫ちゃん「じゃあ、また合併して、1つの組織になればいいのにね。」

石野先生「う〜ん、囲碁界にとってどっちがいいんだろう。色々なカラーを持った団体があるのも、それはそれで面白いような気もするし・・・」

薫ちゃん「関西なんだから、解説にお笑いの要素を取り入れてみるとか!」

石野先生「そうそう、そんな風に独自色を出して差別化を図っていけば、日本棋院も負けじと頑張るだろうし、いいライバル関係であってほしいよね。」